3ヶ月前に患った左耳の突発性難聴のことを気にかけてくださってる方がいらっしゃるようですので、その後のご報告です。
突発性難聴のその後について
最初の病院の治療ではまったく治らなかったので大きな病院に転院したのですが、そこでもまったく治らなくて、未だに聴力は回復していません。
耳鳴りも治らず、そのまま居座っちゃいました(・・;)
難聴は慣れたら違和感なし
難聴については、最初の頃は、左耳が詰まっているような気がして気持ちが悪かったり、音楽もこれまでのように立体的に聴こえないのでなんだかこれまでと別世界になっちゃったような気がして憂鬱になったりしたのですが、人間は慣れる生き物のようで、今ではこれが「普通」という感じで違和感はなくなりました。
よく古いカラオケ屋さんなんかに行くと、スピーカーが壊れかけていたりしてものすごくひどい音で、左右のスピーカーの音もぜんぜん違っていて、こんなひどい音を聴き続けていたら頭が痛くなっちゃいそう…なんて最初は思うんだけど、30分もしないうちにその音に慣れてきて、1時間もしたらその音が普通の音のように聴こえてきたりすることがよくあるのですが、それと同じような感じです。
耳鳴りと仲良くするには
耳鳴りも、駅のホームにいるときに電車が入ってきても電車の音なんかに負けずにキーンと鳴り続けているので、音量的にはかなりの爆音だと思うのですが、人間の脳はいつも鳴っている音は無視できるようになっているようで、耳元で常に爆音が鳴っているにもかかわらずほとんど気にならなくなりました。
しーんという静寂はキーンという静寂(?)に変わりましたが、別に生きていく上で不便はありません。
うるさいから眠れないということもなく、普通によく眠れます(-ρ-)……..zzz
耳鳴りがうるさいので何とかしたいなんて思い始めると耳鳴りの音が余計にどんどん気になってきちゃって、気にすると音量もどんどん増幅して聴こえてきちゃうので、『鳴りたいものは鳴らせておけばいいや』ぐらいの寛大さで接するのが耳鳴りと仲良くするコツのようです。
耳鳴りはメガネの額縁みたいなもの
以前、ベースをよく弾いていた頃、どの曲を聴いてもベースの音ばかりが増幅されて聴こえてきてしまうというような現象に見舞われたことがあったので、人間は自分が興味を持っている音は他の音よりも大きな音で聴こえるというようになっているようです。
なので、耳鳴りの音に興味を持っちゃうと耳鳴りの音が余計に大きくなっちゃうので、耳鳴りの音に興味を持たなければいいというわけです。
そうは言っても、耳鳴りが始まってすぐの頃は、気にしないでおこうと思えば思うほど気になったりしちゃて、気にしても気になるし、気にしないでおこうと思っても気になる、という感じでした。
でも、幸い人間は飽きる動物なので、同じものに興味を持ち続けるというのはなかなかやろうと思ってもできるものではありません。
ましてや耳鳴りの音はいつ聴いても同じような面白みのない音なので、最初は物珍しさもあって気になっちゃったりするのですが、そのうちどんどん飽きてきて自然に興味が薄れていって、そのうち鳴っていることすら忘れているようになります。
たとえば、メガネをかけているとき、メガネの額縁は常に見えているはずなんだけど普段はメガネの額縁が見えていることは忘れていていますよね。
でもメガネの額縁のことを気にするとメガネの額縁がはっきりと見えてきて、気になって仕方がなくなっちゃいます。
でもまたそのうち額縁の存在を忘れちゃって、気にならなくなります。
耳鳴りもそんな感じです。
残された聴力を大切に
さっきから耳鳴りのことを書いていたら、耳鳴りの音に意識がいっちゃって耳鳴りがどんどんすごい音になってきちゃったので、耳鳴りのお話はこの辺で…(^^;)
とりあえずそんな感じで、少々片耳が聴こえにくくなっても、耳元で常時爆音が鳴っていても、そのことを自分で気にしたり苦にしたりさえしなければ生活していく上でさほどの支障はありません。
人と会話したり音楽がちゃんと聴けるだけの聴力があるだけで充分にありがたいことなので、少々片耳が聴こえにくいことや耳鳴りがうるさいことぐらいで不平不満は言わずに、今ある聴力を大事にしていこうと思います。
(体が吹っ飛びそうになるほどの大爆音のライブに耳栓なしで行って最前列のスピーカーの真ん前でヘドバンしまくったり、カラオケで大爆音で12時間以上ぶっ続けでヘビメタを歌い続けたり、というようなアホなことは、もうけしていたしません…)
突発性難聴の前回の記事⇒突発性難聴になっちゃいました